東郷の城址(館址)

更新日:2023年06月09日

ページID : 11062

東郷町内には、戦国時代頃の城(館)が、諸輪地区に4ヶ所、傍示本地区に1ヶ所の計5ヵ所あったと伝えられています。

諸輪の城は、上城(北城)・中城・下城(南城)・前城(東城)と呼ばれ、傍示本城の城は傍示本城と呼ばれています。

その頃の諸輪村や傍示本村は、日進市の岩崎城を居城としていた丹羽家が治めており、丹羽氏重(にわ うじしげ)が、中城や傍示本城の城主でした。

氏重は羽柴秀吉と徳川家康が直接対峙した歴史的重要な戦いである「小牧・長久手の戦い」に登場した人物です。

丹羽氏重の像(想像)(岩崎城歴史記念館蔵

丹羽氏重の像(岩崎城歴史記念館蔵)

外部リンクの地図はいずれもおおよその地点です。

地点・各城の説明ついては、伝承や書物「尾張志」・「諸輪の歴史」・「尾張国地名考」、岩崎城歴史記念館学芸員内貴健太氏の執筆を参考としています。

諸輪の下城(南城)・前城(東城)については、諸説あるため、定かではありません。

諸輪上城(北城)

上城の場所は諸輪字後山、現在の上城さくら公園の南あたりと伝えられています。この公園の名も城跡にちなむものです。上城には氏重の祖父・氏識(うじさと)が居城していたと江戸時代の記録に残っています。氏識は、諸輪字中市にある清安寺を創建した人物でもあり、山号の「道休山(どうきゅうざん)」は氏識の法名「道休」からきています。氏識は晩年、上城で隠居生活を送ったともいわれます。

清安寺

清安寺

諸輪中城

傍示本城の城主でもあった氏重の居城と伝わる中城の場所は、諸輪字中市、清安寺の東あたりと伝えられています。氏重は、美しい側女・おくらとその子ども市兵衛(いちべえ)を中城の近くに住まわせていたという伝承もあります。現地には今でもおくらが信仰されたとされる稲荷社があり、氏重とおくらの穏やかな生活を今に伝えています。

稲荷社

稲荷社

諸輪下城(本陣・南城)

下城の場所は、諸輪字下市の国道153号線と旧郡道(現在町道)との交差点の東側にあたり、国道を挟んで南北にまたがる地帯にあったとされています。

諸輪前城(東城)

前城は、現在の尾三消防署の南側一帯にあったとされています。田面より2mほど高くなった畑があり、周囲の残っている土手の高さが3mほどの地形が存在しており、この地は「城の越」とも呼ばれています。

傍示本城

傍示本城の場所は、現在、傍示本公民館がある南側の春木字市場屋敷一帯とされています。東側に高低差(断崖)が残っており、廃城となった後も南・西・北の三方に堀が残存していたと伝えられています。

丹羽家の前は、代々傍示本加藤家が傍示本城主として領地を治めていました。

「傍示本」という地名は鎌倉時代末期から南北朝時代の頃、国境を示す「榜示」が建てられたことが由来です。

 

傍示本城 東側の断崖

傍示本城 東側の断崖(※許可を得て撮影しています)

傍示本城址石碑

傍示本城址石碑

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習課
電話番号:0561-38-7780
ファックス:0561-38-0066

メールフォームによるお問い合わせ